「SEASON-1」大谷良太

バス停から声が聞える。
(開け放った光――、)
私は洗っている、朝食の皿を、
その手をしばし休め、
水の落ちる光景に見入る。
(スプーンとスプーンに弾ける、
(白いマグの溢れる、

窓外の会話は続いている。
(京都の路地について喋っている。)
私はカランを止め、窓に歩み寄った。
ベランダの塀のせいで、
下のバス停は全く見えない。
(まだ路地について話している。)

(捨ててしまった器のことを考えている。その器、と言ったところでやはり、拾ったものだったが…。
(澄んでいる空気。――午後、私はまた疎水の畔を歩くだろう。

(やがてバスが来て、二人は行ってしまった。会話は行ってしまった。)

カラーボックスの上置いてある松ぼっくり。私は今週になってようやく扇風機を仕舞った。十二月だった。(私はこの頃も碌に人を見なかった。)友人の家に行って友人に会い、彼の子供たちの世話をしていた。友人たちは大抵が皆、子供のいるになっていた。私は帰宅して、昨日、自分の子供のためにを作った。夜になって風呂に入り、子供の寝た後食堂で本を読んでいると、十時を回った刻限、襖が開き、彼が明るい方に起き出て来た。買ったばかりのだぶだぶのパジャマを着て、そのだぶだぶの手で目を擦っていた。牛乳が飲みたい、と彼は言った。私は読み差しの本に栞を挟み、レンジでマグを温めた。彼は両手でマグを持ち、ぬるいミルクをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。(Aは仕事からまだ帰っていなかった。)何かを始めなければならない、という欲求が、私の内でこのところ強くなって来ていた。朝起きて子供を保育所に送り、ぼうっとしているうちに一日が過ぎる、という日ばかりが続いていた。私はこの五、六年、余りノートにも向かわず、物事にも大して執着や拘泥をしない人間になっている、多分。(余白のような冬だ。私は疎水沿いを歩いている。)(琵琶湖から繫がっている流れ、――季節が更に進めば干上がってしまう放水路。)雨の朝、長靴を履いて二つの傘を差し、私たちはこの橋を渡る。このまま、育児だけをしながら十年、十五年を過す、というのも、そう悪くないのだろう。何かを始めなければならない、という欲求にしたところで、結局は、自分の捉え方の問題だった。(しかし、そう分かったところで難しい。)

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十日ほどが経った。今日は晴れているが寒く、私は窓を閉め切っている。やっと乾いた洗濯物を畳んで仕舞った。先程湯を沸かし、コーヒーを淹れた。昼に差し掛かろうとしている。いつになく、私の気持ちは冴え、また、落ち着いている。――自分は何をしたいのか…。私には、既視感を破りたい感覚があった。今朝、保育所へのけに箱詰めの林檎が届き、私とA、それに子供の三人で大きな箱を開けたが、そのようなこと自体、数年前には考えられないことだった。送ってくれたのは、長野に暮らす別の友人だった。保育所から帰り、朝の遅いAを送り出した後、私はトーストと林檎を食べた。それっきり、私は夕食まで食事を摂らないのだった。用事のない限り、人にも会わなかった。それでも長野に電話すると、彼はホテルの喫茶室にいて、やはりブレンドを飲んでいた。寒くなったな、と彼は言った。私は、いの椅子で丸くなっている猫の、マフィンのような背中を見ていた。私が長野に行った時、(それは八月だったが、)彼は真っ昼間からコロナを空けていた。ネクタイの結び方を教えてくれ、これからの結婚式なんだ。分からない、と私が言うと、彼はゲラゲラ笑った。隣に座っている奥さんが、一生懸命彼の首を絞めている。彼女の膝では、二歳になったナミちゃんが駄々を捏ねていた。私は急に煙草が吸いたくなった。電話を切ると、猫が椅子から飛び降りて走り去った。戸外では強い風が吹いていた。ビュウビュウという声が、室内でもガラス越しに聴こえた。

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二〇一五年になっている。一月も下旬だった。昨夜Aに教えられた通りにミネストローネを煮込み、バゲットを買いに行く。スーパーからの帰路、曇っているが白く明るい空だ。コートのポケットに財布を入れ、バゲットの袋を提げて歩道を行く私を、後ろから来る車が次々に追い越して行く。私は、やはり手袋を嵌めたもう片方の手を持て余していた。両手で持つ程でもない、バゲットが軽いのだ。しかし、私にとってこの軽さは丁度よかった。日増しに明るくなって行くこの時期が特に好きで、だから寒さも堪えられる、と思う。疎水の干上がった底、露わになっている乾いたコンクリート。おばさんが家の前を箒で掃いている。――夏に疎水を泳いでいた魚のことを考える。あの魚たちは、今は何処にいるのだろう? 冬になると疎水が干上がってしまう理由さえ、私は碌に知らないのだった。川底に溜った泥が、白く干涸びて罅割れていた。帰室すると、郵便受けにはA宛ての郵便しかなかった。私はバゲットをテーブルに置き、水を入れた薬缶をガス・レンジに掛けた。それからコートとマフラーを脱いだ。食堂の窓から桃山が見える。――その景色はいつもと変わらない。なだらかな黒緑の丘が、中腹まで白い家々に覆われていた。あの向うに明治天皇陵があり、森の中の道が山の反対側へと抜けていた。シュンシュンと湯が沸騰し始め、私はガスを止めた。フィルターにゆっくりと湯を注いでいると、手元から香りのある湯気が立ち昇った。

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二月十九日。優しく降る雨。(と書いて、私は気が付く。――この優しさも、自分の感じ方だった。)近頃は若干暖かくなった。この間ノートに向かわず、自分でも、何をしていたのか、よく分からない。昼になって雨は止んだ。Aがガラス・ポットに活けた連翹と、子供が朝に遊んだ玩具。畳んだけれど、まだ仕舞っていない洗濯物。――少しではあっても、私の気持ちがこう前向きになっているのは、これもまた、恐らくは季節のせいだった。ザッ、ザッと猫が砂を掻く音。朝に雨を降らしていた雲が、今はガラス越しに白く光っている。狭くも青空が覗き、桃山は明るく、その後ろの醍醐の山並は、反対に青く陰っていた。私が昨日洗ったコートは、まだベランダに干されたままだ。(角ハンガーに揺れている洗濯ばさみ――午後になって、微かな風が出ていた。)

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今、私は一人で、やはりテーブルに着いていた。マグを啜りながら、閉め切った室内をぼんやりと眺めた。

(この器は、捨ててしまった器だった。)

(戸外は既に、菜の花の咲く三月だった。)

 

加工写真:とよよん

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